偏差値2で楽しく

楽し〜!好き〜!やったぁ〜!

パンとフィルムの好きなところ ドにわかだけど歌詞が好きなので書き残すの巻

※この記事は、2022年2月26日にふせったー投稿した内容の転載です。せっかく書いたものなので、何かあった場合の保険としてこちらにも載せておきます。

 

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しっかりじっくりちゃんとフルで初めて聴いたのが2月12日、この曲好きだなと自覚を持ったのが2月19日、これを書き始めてるのが2月21日、CDが出たのは4月らしいですわよ。わぁ。ハマった時がハマり時やぁの精神で、ハマりたてにわか人間による、歌詞のここ好きポイントを書き残しておこうと思います。イベストもドラマパートも何も知らないので気が引ける部分もありますが、その状態だからこそ感じることも貴重なものなのだということでひとつ。
歌唱するアイドルたちの個性などについて何も触れていません。
全編通して個人の感想です。個人的な感覚と想像だらけです。


・「金木犀だった」

もう好き。全力で好き。出だしがこのフレーズということが好き。意味がわからなくて「え?なんて?何が?」と疑問符がひたすらに浮かぶフレーズだと思う。もし仕事のメールで届いたら主旨を明確に書かんかいとブチ切れてしまうような言い回しをしていると思う。でもこれは仕事のメールではなく歌詞なので、浮かぶ疑問符は好奇心になって、ここから次は何が来るんだろうとわくわくする。一気に引き込まれる最高の出だしだと思う。

意味が分からない表現でありつつも、たくさんの想像を膨らませられる、たくさんの意味を持つフレーズだとも思う。たったの二言で。
花はすごい。花そのものの見た目、咲いている情景、季節、香り、花言葉、贈り物、モチーフ、柄、色んな連想ができる。
そして直後に「だった」と続く。過去の話になる。連想して広げたイメージが、一気に遠いものになる。奥行きができる。この立体感がとても好きだ。どんな過去があるんだろう…と更にイメージが広がってゆく。こんなに好奇心をそそられるたったの二言「金木犀だった」がとても好きだ。

金木犀」であることがとても好きだ。たんぽぽでも、あさがおでも、ひまわりでも、コスモスでも、椿でもなく、金木犀。そもそも私は金木犀がとても好きだ。金木犀のかわいい見た目も綺麗な色も大好きだが、なによりも好きなのはその香り。外を歩いていて不意にその香りに遭遇した時にはウルトラハッピーになるほどに好きで、金木犀と聞いてまずイメージするのは絶対に香りだ。こんなにも香りが一番印象的な花は他にない。先述の花たちのどの香りも思い出せないけれど、金木犀だけは覚えている。
私にとって金木犀はそんな花だから、音を聴いて、歌詞を見ているところにまず「金木犀」が現れると、その香りに引き込まれるように、一気にこの曲の世界に連れて行かれる感じがする。歌詞を見て、音を聴いて、目と耳で音楽に浸るつもりだったのに、曲が始まって早々に鼻が連れて行かれる。金木犀の香りがただよう曲の世界の中に、自分も入り込んだ感じがする。この没入感がとても好きだ。五感の誘拐犯と言って過言でない。なんて罪深い曲なんだろう。好きだ。

金木犀の話をまだする。花は小さくて奥ゆかしいのに、香りは風に乗ることができて自由だから、香りには出会っているのに花がどこにいるのか見つからないことがままある。出自が分からないのに既に香りで惹きつけられている感覚と、先述の意味がわからないけれど好奇心をそそられる「金木犀だった」の出だしが、なんだかマッチしている気がしてとても好きだ。香りの不意打ちと言葉の不意打ちが一体となる感じというか、うまく言い表せないけれど、好きだ。

金木犀の話おわり。長い。


・「懐かしい風の匂いがして」

「懐かしい」も過去があるからこその言葉だと思う。「だった」に続いて過去を強く意識させてくる。またしてもたったの二言でこの曲に惹きつけられてしまう。言葉の選び方が逐一好きだ。始まってまだ三言なのに。

「風の匂い」も好きだ。金木犀とは違う種類の匂い。季節によって変わる匂い。匂いという表現で正しいのか迷う、でも確かにあるあの感覚。あの感覚自体も、あの感覚を登場させてくれるこの歌詞も好きだ。

言葉は感じよりも後追いで来ると私は思っている。まずぼんやりしたものがあって後からそれに名前がつくと考えている。なので、金木犀の単語だけでその香りのイメージが駆け巡っていたところに、「匂い」という単語が後から追いついてくるところがなんだか好きだ。
風の匂いであって、金木犀の匂いではないにしろ、まず金木犀があって後から匂いという概念が来る、そんな順番が好きだ。


・「左手は誰か探していた」

あぁ手を繋ぐ時はそっち側だったんだろうなぁ、と直感的に思った。繋いでいたのかは歌詞のどこにも書かれていないけど、この曲は書いていない空気感をひしひしと感じさせてくるなぁと思う。そんなところが好きだ。妄想と言ってしまえばそれまでではあるけれども。妄想を掻き立ててくれるというのは、魅力的だということなのだ。
冒頭で嗅覚が曲に誘拐されたが、ここでかつて繋いでいた(仮)、手が登場したことで触覚も曲の世界に攫われた。こちらの五感を刺激してくる歌詞、好きだ。


・「桜だった」

金木犀といえば圧倒的に香りだけど、桜といえば圧倒的に見た目だと思う。花というより木、さらには並木、もっといえば土手や公園、桜のある空間が想起される。めっちゃくちゃ視覚的。桜に攫われるという表現はよく聞くが、確かに視覚が攫われる。歌詞を見ていたはずなのに桜が見える。こちらの五感を刺激してくる歌詞、好きだ。

高校生の頃、古文で花が出てきたらまぁだいたい桜だと思って差し支えないと先生が言っていたことが忘れられない。当時は花なんて他にもなんぼでもあるやんかと思っていたが、今となっては確かに桜という花は存在感がべらぼうに強いなと思う。
もしこの曲が「桜だった」から始まっていたら、印象がまた違うものだったろうなと思う。長々と書いた、金木犀の香りの不意打ちのくだりは全てなくなっただろうなと思う。まず金木犀が登場して、そのあと桜を登場させる、そんな順番が好きだ。


・「髪の毛からんだ花びらをからかう声聴こえた気がした」

「声」の登場。ここで聴覚も曲に攫われる。何回言うねんという感じだが何度でも言うが、こちらの五感を刺激してくる歌詞、好きだ。
曲を聴くこちらの五感を刺激して曲の世界に引き込んでゆくAメロの誘引力が凄まじい。好きだ。そして曲のこちら側の五感に訴えかけてくる歌詞のおかげで、曲のあちら側の「あたし」が、あらゆる感覚の中に「きみ」を見出していることが実感を伴って伝わってくる。
匂いの中にも景色の中にも昔を思い出し、今は触れることは叶わず声を聴くこともできない。そんな切なさを、美しくて端的な言葉で、でも直接的には表さず、言外でおぼろげに形作るようにして表す繊細な歌詞がとても好きだ。ただひたすらに好きだ。


・「暮らしのなか」
「なか」が漢字ではなくひらがななのが好き。なんだか素朴な感じがして、特別ではない日常においてということなんだろうなと感じる。

・「椅子の足に」
椅子の足に誰かを感じるって、自分には経験がないのでどんな感じなんだろうかと想像を巡らせてみた。思い浮かんだのは、今までは座る人によって隠れていて見えていなかった椅子の足が、その人がいなくなったから見えるようになった、という流れ。"有る"椅子の足によって、「きみ」の存在が"無い"ことを痛感しているのかなと思った。
なんでそんな想像になったんだろうと考えてみたら、「きみ」がもう側に"いない"ことを「きみが"いて"」と対称的な言葉選びで表現しているところが好きだからだなと気づいた。直接的に言い表さないところが好きなんだ。


・「パンの湯気に」
猫舌なせいか、湯気が出るパンの想像がつかなかった。さっぱりつかなかった。パンって湯気が出ない食品なのではないかとまで思ったが、調べてみたところそんなことはないらしい。出来立てのパンは湯気がほかほかでとても美味しそうだった。湯気が出るのは一時的だろうから、そんな瞬間も共有できていたほどに「きみ」は近い存在だったのかなと思った。

猫舌ゆえ湯気が出るほど温かいパンに馴染みが本当になかったので、食品のパンではなくてフライパンの方のパンなのかもしれないとも思った。湯気のイメージが簡単にできた。
食品のパンの場合、登場するシチュエーションはいくつかある。家かもしれないし、食べ歩きなら道端だし、カフェとかレストランとかお店かもしれない。でもフライパンの方のパンの場合、登場するとしたら家の可能性がずば抜けて高くなる気がする。シチュエーションはほぼほぼ家の台所だと思う。めちゃくちゃ生活感が出てくるし、めちゃくちゃ「暮らしのなか」を感じてしまう。
私はそもそも、なんてことない生活が出てくる歌がとても好きなので、暮らしの一端が現れるこのBメロの歌詞がとても好きだ。


・歌詞1行ずつ触れていったら終わるのいつになんねんと思ったのでペースをあげます

「間違えない恋なんて恋じゃないとか言って」の部分の第一印象は、若いな〜〜〜だった。直後に「幼い」と続くのも拍車をかけている気がする。恋についての定義とか美学とか持論とかがある雰囲気に、なんとも若気の至りみたいなものを感じた。眩しいなとも思った。
でも別に若さは関係ないなと思い直してみたら、ロマンチストだな〜という印象になった。恋について美学があること自体にも、その内容がつまり『間違えてこそ恋』なことにも、ロマンチストを感じる。この言葉を言ったのが「あたし」でも「きみ」でも、恋してること自体をすごく楽しんでいそうな、熱のある雰囲気を感じる。眩しい。もうそれは過去になってるわけだけど。切ない。

私でもなく、わたしでもなく、「あたし」なところから個性がほのかに感じられるところが好き。歌詞全体が内省的だから、私よりもよそ行きじゃないカジュアルな一人称がとても合うなと思った。
作詞家さんの意図は知らないけど、そんなふうに思った。

大人ではなく「おとな」表記なところも好き。成人してるとか、年上だとかいうことではなくて、成熟してるってことなんだろうなと思った。
作詞家さんの意図は知らないけど、そんなふうに思った。

「天気雨がアスファルト叩く匂いがして」
また五感を攫いにきた。しかもアスファルト叩く"音"かと思えば「匂い」だし。上がった湿度でベタつく肌や髪。全身で感じる空気の重さ。

「立ちのぼったきみの気配」
気配。それはもう五感を超えて第六感なのではないかと思う。

もはや五感を刺激してくるとかいうレベルじゃない。引き込まれるどころじゃない。曲の世界で生きている。そんな質感がある。好きだ。

「シャツの襟に靴の紐に」
好きだ。好きポイントが多い。端的に、直接的にならず、個性や生活を繊細に表す歌詞が、想像を掻き立てる歌詞が、書いていない空気感を伝える歌詞が、全体を通してとても好きだ。
またしばらく妄想を広げてしまう。
シャツも靴もファッションアイテムだ。1番Bメロのパンでは、食品やら家の台所やら騒いだが、2番Bメロと合わせて衣食住が揃った。もうどうしようもなく「暮らしのなか」を感じてしまう。好きだ。

「きみ」がかわいいと褒めてくれた襟なのかもしれない。「きみ」と色をお揃いにした靴の紐なのかもしれない。「きみ」と「あたし」が一緒にどう過ごしたのか、「二人描いたフィルム」がどんなものなのか感じてしまう。ただの個人的な妄想でしかないけれど、感じ取れる余白があることは魅力だ。好きだ。

シャツの襟は高い位置に、靴の紐は低い位置にある。上から下まで、どんな所からも「きみ」を感じていることが実感できる。直接的にならずに伝える言葉選びが好きだ。

シャツの襟も靴の紐も、乱れやすいものだと思う。そして、コミュニケーションに繋がるものだと思う。
シャツの襟は、本人からは直接見えないから、側にいる人の方が気づきやすくて直しやすいと思う。けれど、乱れている襟を直してくれる「きみ」はもういない。
靴の紐がほどけたら、結び直す時には一緒に歩いている人に待ってと声をかけて、終わったらおまたせと声をかけると思う。けれど、もう「きみ」はいないからただ黙ってひとりで直して終わるだけ。
もうコミュニケーションが生まれることはない。乱れていることに気づくことすら出来ないかもしれない。この2つのアイテムから、そんな喪失感をひしひしと感じた。作詞家さんの意図は知らないけど、そんなふうに思った。

「思い出さないでいいよ」
思い出さなくていいよじゃなく思い出さないでいいよなところが好き。
音に歌詞が綺麗にはまって聴いていて気持ちいい。好き。
私じゃなくて「あたし」なところにも通ずるけど、どことなく口語的というか、くだけた口調を感じて、借り物の言葉ではなくて「あたし」自身から出た言葉なんだなと思えて好き。
「思い出さないで」までで意味が通じるところが好き。


「終わっても終わらない恋だった」
すごく特別で劇的で熱いもので未練があるように表現した直後に
「どこにでもある恋だった」
とすごく冷静で客観視して割り切ったような、自嘲にも思える表現を並べる、この温度差にぞくぞくする。
「間違えない恋なんて恋じゃないとか言って」いたようなので、それを踏まえると、この「どこにでもある」は、平凡で、普遍的で、特別感のないというようなネガティブな意味合いなんだろうなと思う。
でもこの歌詞に至るまでにひたすら、周りのあらゆる物から、至る所から、「"どこでも"」きみを感じてしまうという歌詞に、こちらは切なさと美しさをどうしようもなく見出してしまってきたわけで。
サビでは「ありふれたけれど美しい日々」「くだらないけれど愛おしい日々」と表現していて、「どこにでもある」ことに対する自嘲と慈しみという、相反するとも言える感情がない混ぜになっているこの歌詞がとても好きだ。

ここまでの歌詞全体を通して、「あたし」の今の気持ちを直接的に表す言葉はあまり出てこないように思う。「寂しさ」は出てくるけど、寂しいとはいっていないし、それも「遠く過ぎ去って」いる。「抱きしめればよかった」から後悔が伝わってくるくらい。
歌詞を手書きして思ったのは、語尾に「た」と「て」がとても多いということ。なんせ出だしが「金木犀だった」だし、過去形がとても多い。今の気持ちは分からない。
今あるものを、順接も逆説もなく淡々と並べるだけだから「て」が多い。「匂いがして」「きみがいて」「過ぎ去って」「そこにあって」。で?と聞きたくなるくらい、今の気持ちは教えてくれない。それでも感じ取れるものがあるところがこの歌詞の好きなところで、悲しいとか恋しいとかの言葉を使うよりもよっぽどその気持ちが伝わってくるから、言葉は不思議だなと思う。

言葉は感じよりも後追いで来ると私は思っている、まずぼんやりしたものがあって後からそれに名前がつくと考えていると金木犀と風の匂いのくだり(かなり前)で書いたけど、これは私が感情を言葉で表すことがめちゃくちゃ苦手だから思っていることで。気持ちがとても盛り上がったことを興奮したと言い表すと、それは興奮という型に収まってしまって元の感情とは形が変わっているんじゃないかとか。興奮もあるけど興奮じゃないものもある、という気持ちなのに、興奮じゃないものが無いものになってしまうんじゃないかとか。そんなことを思ってしまうので、今この感想文を書くにもめちゃくちゃ苦心している。この感じは苦心と表していいのだろうかとか思っていちいち止まる。
だから、感情を表す言葉を使わずに感情を込めているこの曲の歌詞が、なんだか「あたし」が感じていること、思っていることを何かにあてはめようとせずに、ありのまま大切に扱っているような感じがして、すごく好きだ。


「あたしを変えるだろう」
「歩いてゆくんだろう」
過去形が多くて、今の気持ちは分からなくて、と思ったところに、未来に思いを馳せる言葉が来る。この流れが好きだ。


「まだきみが残ってる」
「耳のなかに きみを残してる」
好きすぎる。「残してる」があまりにも。過去形ばかり出てくる、今の気持ちを表す直接的な言葉は出てこない、そんな状態で未来の話をし始めた、と思っていたところに、「残してる」という、能動的で、そこに意志があることを感じる言葉が出てきた。直前に「残ってる」という、不可抗力のような、ただの事象を表すだけのような言葉を出して、それをわざわざ言い換えて、「残してる」と。
「残ってる」を改めてもう一度繰り返して強調するではなくて、「残してる」という言葉を選んでいるところが堪らなく好きだ。
「寂しさ 遠く過ぎ去って」と言っているのに。「思い出さないでいいよ」といっているのに。それでも「耳のなかにきみを残してる」。
「さよなら」と決別して、その決別すら「遠く過ぎ去って」も、「日々の記憶を残して」いる。
もう堪らなく好きだ。この胸にあふれる気持ちをなんと言えば分からないけどこれだけははっきり言える。好きだ。


終始まとまりのない文章になってしまったけど、今できる最大限がんばった。
最近は色んな疲れで何も出来ないでいたけど、感情がポジティブな方向に衝撃を受ける体験を久しぶりにできた。こうして書き残したいと思えるほどのエネルギーをもらえた。
ありがとうパンとフィルム。大好きです。